奄美群島日本復帰60周年に寄せて

    今日は12月25日、奄美群島が日本に復帰して60周年をむかえました。
    私の父は、名瀬市(現在、奄美市)に生まれ、空襲が激しくなった19年の11月に家族で内地(鹿児島)に疎開しました。
    しかし、終戦から8年後の昭和28年12月25日までアメリカに統治されていた奄美に帰ることはありませんでした。
    以前、大島紬の織り手であった祖母のことを書きましたが、私が生まれる前に死んだ祖父は、「大島紬同業組合」の紬の検査員だっ たそうです。
    大島紬の歴史は、銀座もとじ( 泉二 )さんが詳しくご紹介してくださっているのですが、

    父と伯父の執筆による家族史に「我が家と大島紬」というくだりがあり、私にとって、この文章を読んでから「大島紬」が特別な織物となりました。

    60周年の記念に少しご紹介します。(家族史なので内容に軽重があるかとおもいますので、明治以前など客観的な史実は、前述「もとじ」さんのサイトを見ていただければと思います。)

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    <祖母の織った大島紬>
    まだ母が独身だったころ、職場の同僚だった父から購入した品だそうで、経緯絣は高価で買えなかったので緯絣なのですが、
    竜郷村生まれの祖母らしい南洋の草花をモチーフとしたはなやかな柄です。(これが縁で結婚?)


    「我が家と大島紬」
    1.紬の歴史
    奄美大島では奈良時代から養蚕が広く行われていて奈良正倉院の献物帳に「南方から褐色の紬が献上された」という記録が残されているそうだが、これは島で蚕から取った絹糸を奄美に自生するテーチ木や他の草木などで染められて織られたものと言われている。
    このテーチ木の木汁と田んぼの細かい泥で幾回も染め重ねるもので、この手法は現在まで代々受け継がれている。
    明治30年頃まではイザリ機であったが、その後、高機に変わり能率も上がって生産が増えた。
    明治37,8年の日露戦争による好景気で需要が急速に増え、その独特の渋い褐色の落ち着いた図柄の絣模様が日本全国の裕福な婦人達の愛好するところとなり、値段も急上昇し島の有力な商品としての価値が高まった。奄美の各島々でも家内工業的に家庭で織られ主婦や娘さんたちの格好の仕事となった。
    大正10年頃から、それまで練玉糸であった紬も内地から取り寄せた本絹糸を原料とする高級な紬が主流を占めるようになり、また絣の織り方も手括りによる締出しから「締機(シメバタ)」による締絣法が開発され高級柄も織れるようになってますます名声をはせるようになった。
    昭和に入って泥染大島に加えて、泥藍大島紬も作られるようになって今日に至っている。

    2.紬糸が出来るまで
    大島紬の図案は絹糸の種類や糸の密度に合わせて方眼紙の上に図柄を描くことから始まる。これは方眼紙の上に出来上がり図案を経緯糸の組合せで描くので昔からの伝統的な龍郷柄とかモチーフを奄美の大自然に取り、草、樹、花、貝、蛇、亀の甲あるいは、夜空の星等色々変化に富んだ図柄が開発された。
    絣は、経糸と緯糸の織りなす点や線の組合せで柄を作り出すもので、さらに大人の和服一反分には花模様などいくつかの柄が繰り返し織りこまれるため、絣を作る糸に予め図柄の基になる線や点を作っておかなければならない。
    そこで方眼紙の図柄に沿って必要な本数の糸を揃えて糊で固めておく。この糊にはイギス・フノリと称して大島で採れる海藻を炊き糊化したものを使用する。糊で一度糸を固めるのは製品に艶が出て虫が着きにくい点や伸縮性が出る為だそうだ。
    こうして『締機』と称する絣締め加工の第一次の無色の絣を作る。これは大変な力がいるので男の仕事と決まっている。
    こうして一旦絣にした無色の生地を、細かく砕いたテーチギで約半日煎じて得られる木汁に幾十回も繰り返し染めると、木汁の中のタンニン酸の作用で布は赤褐色に変化していく。テーチギ染めを終わった加工布は泥田で百回程叩いたり泥に浸したりを繰り返すとタンニン酸と泥の鉄分が化合して糸は柔らかくなりほぐされて、大島紬独特の色調に染まっていく。
    この泥染めの特徴は「皺になりにくい、暖かい肌合いになる、糸の表面に天然の樹脂加工がされる」などと言われている。
    染色の終わった製品用の糸は経絣糸、緯絣糸、経地糸、緯地糸に分けられ水洗いして仕上げの糊貼りの工程を経て天日で乾燥させて製品用の糸に仕上げる。ここまでは糸の専門工程で、紬を織る紬工場ではやっていない。
    名瀬の町には糸屋さんがたくさんあってこれらの仕上がった糸を織物屋さんに販売する専門の店が多い。

    3.機織り
    名瀬の昭和初期には紬の織物工場が数えきれないほどあった。個人で内職に紬織りする家は無数にあって名瀬以外でも大島本島の各村、本島以外の各島々でも盛んであった。
    我が家でも母(祖母)が少しでも副収入を増やすために、昭和9年頃から自分で紬を織るようになった。 娘時代に機織りの経験もあったので中古の織機を手に入れて織りはじめたのである。
    糸屋さんから柄物の締機の絣糸を仕入れて来て、家の六畳間で糸繰り用の大きな組み立て式の台で経糸、緯糸各々管巻にして機織り機にかけた。
    母一人ではどんなに頑張っても せいぜい月に二匹(四反)がよいところで、そのうちに、納入していた東京の小売店での販売もだんだん減り、年に数匹程度になっていたが、戦争がひどくなるまでは細々と織っていた。

    4.大島紬の検査
    父の勤めていた検査場は、名瀬の西寄りの金久(かねく)というところにあり、欄干山の下の我が家からは歩いて数分のところにあった。
    1階は検査室、薬品試験室、受付・庶務・経理といった部屋に分かれていた。それらのなかでも検査室は板張りの大広間になってい て父(祖父)はそこで仕事をしていた。
    紬仲買人や織物工場の主人は多くの紬を自転車の荷台に積んで検査場にやってきて、書類の手続きを済ますと父などがいる検査室に持ち込んでくる。
    検査員の仕事は1匹の紬の端っこを鋏で5センチ角ほど切り取って薬品検査室の方へ回し、反物の長さ既定の長さが あるかどうかを三尺の鯨尺で器用に測るのだが、この物差しの手さばきが実に鮮やかであった。
    そのやりかたはまず反物を床に放り 投げて物差しを右手に持ち左手で紬の端を摘んで立ったままの姿勢で物差しと紬を3尺ずつずらして数えていく。その手さばきの早いこと、シュッシュッという絹擦れ特有の音を響かせながら尺検査をする。それから柄ムラがないか、傷がないかなどを調べる。
    その検査が終わる頃に薬品による退色テストの結果が回ってきて問題がなければ書類にぽんと判こを押して事務方へ回す。紬を持ち込んだ仲買人や工場の人は検査の終わった紬を折りたたんで事務の方へ持って行ってそこで検査済証のシールを貼ってもらうといった 手順であった。
    昔の田舎の職場というのは至ってのんびりしていて私(伯父)は小学1,2年生のころまで検査室の低い衝立の側で父の検査風景を 飽かずに眺めていたもの だった。

    ※10年ほど前、このような我が家のルーツを知り、それからは、検査場の片隅で飽かず見ていた伯父が自分のような気分になり、大島紬を見るたびにその手間仕事を想像し飽かず眺めてしまいます。
    特に、龍郷柄、西郷柄、秋名バラなどの古典柄は私も大好き!なのですが、ピークの昭和50年代には、年間80万反以上も売れた結果、日本中の家の箪笥に1枚は大切に仕舞われているほど普及してしまいました。
    ヤフオクや古着市場で現在も大変人気があり高価で取引されていますが、生産者には一銭もお金が入らないのが寂しくなります。
    私も母や知人から貰った大島を大切にすると同時に、新しい大島も是非誂えてみたいと、現在”大島get貯金”をしています。

    プロフィール

    柾女

    Author:柾女
    自己流のお裁縫でチクチク手縫いを日々楽しみ、”着物ライフ”をつつましく充実させたいと願っています。

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